刈羽特産品 砂丘桃の歴史

嘉永五年(1852年)、大字下高町の行商兼業農家「塚田源太夫」が砂丘地の開発として、果物からの栄養補給による食生活の改善、不毛の砂丘を宝の山と変える構想で桃を導入したのが始まりである。

明治のはじめには、柏崎閻魔堂前に桃茶屋があり、刈羽の砂丘桃が販売されていたという。大正から昭和にかけての全盛期には栽培農家 190戸、面積 50haに達し、上越、糸魚川、遠くは岐阜県高山まで出荷された。また当時、緑の松の間に紅い桃の花が一面に咲きそろう様はまさに桃源郷であった。

大正2年(1913年)越後鉄道(現在のJR越後線)が開通し、荒浜駅・刈羽駅間に臨時の「桃林駅」が設けられると。茶屋や歌舞伎の舞台があり演芸者にも開かれ、連日花見客でにぎわった。

その後、第二次世界大戦になると、食糧増産のため桃の木は伐採され苦しい歩みをたどってきた。戦後復興し、昭和30年代にようやく 20haほどに回復するが、高度経済成長期を経て漸減し、現在は約 7haの桃畑で 20戸ほどが生産している。

刈羽の砂丘桃は、砂地で地中に水が停滞せず地温も上がり、その輻射熱と反射光線が桃の味をよくする。糖度が高いと言われる砂丘桃の評判は高いが、砂丘地斜面での作業はきつく後継者不足に悩んでいる。

平成24年、砂丘桃の普及、振興を目的の一つとする産業観光複合施設「ぴあパークとうりんぼ」がオープンした。指定管理者として桃の圃場を管理しているピーチビレッジ刈羽(株)は、砂丘桃の持続可能な生産体制を構築するために、地元農家と連携しながら生産、販売に取り組んでいる。